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2003年8月号掲載 よしだともこのルート訪問記

第82回 人と機械の共生で生活をもっと楽しく!
〜とめ研究所〜

今回は、2003年4月に誕生した「とめ研究所」注1の福留さんを訪ね、新会社の理念や活動、1995年からの福留家の家庭内LANの概要、そして20年以上かかわってこられたUNIXについて話を伺いました。

福留(ふくとめ)さん
とめ研究所 代表取締役

■鉄腕アトムは「とめ研」のココロ!

よしだ(以下、Y):お久しぶりです。福留さんが、オムロン株式会社を「卒業」注2して会社を作られたと聞いてやって来ました。まずは、設立の経緯をお願いします。

福留さん(以下、F):とめ研究所(以下、とめ研)は、知識処理技術とヒューマンメディア処理技術を活用することで「人」を中心とした社会の構築に貢献する会社で、ポリシーは「技術者の感性を大切にする、自由闊達なハイテク集団」です。経営理念は「面白いことをやって社会や生活を変える」で、ビジョンには「人に優しい機械」を掲げています。
 近い将来、人と機械が高度に協調、共存する最適化社会が始まります。そのためには、機械が人のようになる必要があります。そこでまず、人の振る舞いをつかさどる「人モデル」を作り、それをすべての機械に持ち込みます。そうすれば、人と共存する「人に優しい機械」ができ、誰もが平等にITの恩恵を受け、生活が楽しくなるはずだと考えるからです。

Y:とめ研設立日は、ロボットアニメ「鉄腕アトム」注3の誕生日と同じということですよね。

F:アトムが生まれた日、つまり2003年4月7日です。手塚治虫は、40年以上も前に「2003年4月7日にはこんなロボットが誕生する」と予想したわけで、すごい人ですよね。そこで、人に優しい機械作りを目指すこの会社では、心の部分で「鉄腕アトムを目指そう!」ということで、この日を設立日にしています。

Y:具体的な業務内容を教えてください。

F:ITコンサルティング、ITコーディネート、IT調査、特定先端技術者派遣、IT先端研究開発受託です。2番目のITコーディネートというのは新しいビジネスモデルで、ほとんど民営化できていません。とめ研では、大学の研究内容と企業の出会いをコーディネートし、商品化のプロジェクトを起こす活動を行っています。これはマッチング事業と呼ぶもので、現在日本では、公的な団体がコーディネートしていますが、民営化はなかなか実現されていません。民営化されない理由は、従来の成功報酬型では成功の見極めが数年先になり、現在のマッチング事業の資金になりえないし、そもそも成功確率がとても低かったからです。しかしとめ研では、コーディネートしたテーマについて、商品化のプロジェクトの開発受託を受けることで、ビジネスとしても成り立つようにしています。とめ研の業務内容である「ITコンサルティング、ITコーディネート、IT調査、特定先端技術者派遣、IT先端研究開発受託」では、前の項目は後の項目の営業になっています。利益が得られる仕組みさえあれば、民間でも着手できると考えているからです。

Y:実装部隊を持たない大学研究者の場合、せっかくのアイデアが論文の執筆のみで終わってしまうので、そういったプロジェクトは非常にありがたいと思います。

F:商品化に関して公的機関が補助をし続けているというのは、日本のIT産業が独立して成り立っていない証拠ですから、それではいけないと。この分野で税金を使っている限り、アメリカには勝てないでしょう。

Y:なるほど。とめ研に、オムロン製のネコ型コミュニケーションロボット「ネコロ」注4がいますが、開発に福留さんもかかわっていたのですか。

F:商品化部分を担当したので、かかわっていたといえます。ネコロは、オムロンのセンシング&コントロール技術と人工知能の技術を搭載しているため、体内の触覚、聴覚、視覚、姿勢センサーで人の働きかけを認識し、自分の感情を動作で表現します。飼い主の声や自分の名前も覚えて反応しますし、飼い方によって性格も変化します。だから、「ネコロは、単なるモノでもない、でも実際の動物でもない、さぁ何でしょう?」という感じですね。

Y:模範回答は、「人間のための機械」でしょうか。とめ研にとってのネコロの存在は何ですか。

F:鉄腕アトムと同様に、1つのシンボルです。

■福留家の家庭内LANとサーバー運用の歴史

Y:とめ研オフィスのネットワークについて教えてください。

F:サーバーは、Red Hat Linux 8.0を使って組みました。回線は「フレッツ・ADSL モア」を利用していて、固定IPアドレスサービス8つの提供を受けています。
 構造はいたってシンプルです。ADSLにモデム、ルーター、HUBの順につなぎ、それにサーバーとパソコンが4〜5台つながっているという構成です。
 福留家の家庭内LAN構築については、1995年からの様子をずっとWebサイト注5に書きためていまして、検索サイト「Google」で「家庭内LAN」を検索したら3番目に表示されますよ。

Y:福留さんのサイトは、家庭内LAN関係の情報が満載ですよね。私がとくに注目したのは、福留家のLANの進化が「我が家のネットワーク構成」として残っている点です(参照)。

F:1995年当時は普通の電話回線をモデムで利用、1996年にISDNでの接続に変更というのは、普通の家庭でも珍しいものではないのですが、我が家の場合、1998年8月に月に3万7,000円払って、OCNエコノミー(64Kbps)の常時接続回線の利用とインターネットサーバーの運用を開始しました。
 当時、娘、息子、そして私の3人がばんばん使っていましたから、家族みんなのインターネット接続料金の合計額が4万円近くになっていました。それなら、常時接続にすれば、Webサーバーも立てられるし、アカウントも好きなものが使えるしということで踏み切りました。当初、fukutome.gr.jpを使っていましたが、2001年に汎用ドメインを申請して優先順位第1番だったので、現在はfukutome.jpを使っています。
 1998年6月、常時接続に向けてサーバーを立ち上げるとき、Windows系、UNIX系の選択肢がありましたが、UNIX系なら無料ということでFreeBSDの書籍を購入して、各種サーバーを立ち上げました。8月7日にOCNエコノミーの工事をし、翌日にはメールが送れたのですがWebページが見えていませんでした。そこで、DNSのセットアップをやり直すと、8月9日にはWebページが見えるとの連絡が、広島の兄貴からありました。
 アクセスログを見ると、どこからのアクセスがあるのか一目で分かるのがうれしかったですね。自分の机の上にあるルーターが世界につながっていると思うと、感動的でした。その後、SambaをインストールしてWindowsとのファイル共有、外出先からのPPP接続、インターネットWebに認証を設ける作業、CGIの勉強がてらアクセスカウンタの設定、UNIXのddコマンドでファイルシステムのバックアップなど、サーバーに関するいろいろな作業を試行錯誤しながら行いました。やればやるほど前進するのですが、それ以上に疑問が出てきて、そのうち仕組みが分るというあたりがUNIXの面白さですね。
 2001年1月に、ルーター機能なしで有線LANに追加設定するタイプの無線LANをセットアップしました。11月になって、OCNエコノミーの約3分の1の値段で、ADSL固定IPアドレスサービス『OCN ADSLアクセスIP8/IP16 「フレッツ」プラン』が始まったので申し込み、2002年2月8日に工事が完了。2月23日にADSL固定IPサービスへの設定変更の作業が完了し、3月11日にはOCNエコノミーの回線停止と旧IPアドレスを返却しました。

 福留家のネットワーク構成(2002年2月)
福留家のネットワーク構成

■UNIX歴は20年以上!

Y:福留さんのUNIX歴は長いですよね。

F:長いというか、非常(異常)に古い(笑)。

Y:私がUNIXに出会った1984年当時、福留さんはすでにUNIXを知り尽くしていて、神様のように思えましたから。UNIX歴は20年以上ですよね。

F:はい。UNIXにたどり着く前にも、10年ほどの歴史がありますよ。

Y:詳しく教えてもらえますか。

F:1970年代、オムロン(当時は立石電機)でのマイコンチップに関する取り組みは早く、1974年には米Intelの8080注6をCPUとしたボードコンピュータ「OMRAC-B」を開発していました。OMRAC-Bは銀行端末のメインコントローラとして開発された2ボードコンピュータ(後に1ボードとなった)で、CPUが8080、メモリとして磁気コマ(後にICメモリになった)を採用していました。その後我々は、日本初の、8080上で稼働するマイコンOSであるRTCM-80注7を作ったのですが、OSといっても非常に簡単なリアルタイムモニターで、サイズは4KBでした。
 当時、開発に使っていたIBMホスト計算機上には、まだ会話型OSは導入されておらず、エディタが使用できなかったので、紙カードパンチャを使ってパンチとエディティングを行っていました。このように、マイコンの出現によって、オムロンでもコンピュータを持てるようになり、CPUも8ビットから16ビットマイコンの時代に移り変わりましたが、常にオリジナルOSの開発の苦労があり、これは1980年にUNIXを発見するまで続きました。
 マイコン全盛期を迎えるに伴い、ソフトウェアクライシス注8(ソフトウェア開発者が足りなくなる!)が問題視されるようになり、オムロンでも全社的にソフトウェアの生産性向上に取り組む必要性から、AS(Advanced Software)プロジェクトが発足しました。進め方として、統一言語、統一技法とツール、統一OSの3つの分野でアプローチすることになり、これらの若手専門家(当時の30代前半)が全社的に集まり、ワーキンググループを結成し、私は統一OSの分野を担当していました。調査、検討から実行計画まで約3か月で行い、その計画に基づき中央研究所内の部署で、1982年からの2年半にわたって実際に開発することになりました。
 まず、統一言語に関しては、Pascal、C、Ada注9の中から、当時の我々若手の意見が採用され、C言語に決まりました。次に、統一技法とツールについては、この取り組みが世界的にも早かったため、サンプルがなくてどこから手を付けてよいか分かりませんでした。最終的には、IBMの技法とC言語によるシンボリックデバッグツールが考えられました。
 最後に、統一OSのうちの16ビットMPU用OSには、「C言語で記述されているために移植性がよくてソースコードの入手も可能」なUNIXの採用が決まりました。私は、UNIXの存在を知ったときひそかに万歳をしていました。「これでCPUごとにオリジナルOSを作らなくてもコンピュータが作れる!!」という感動からです。
 我々のUNIXの取り組みの最初は、1981年にEXOR macs(米Motorola製のMC68000注10用開発装置)上で、UNIX V6注11コンパチブルなIdris(米Whitesmiths 社)注12をバイナリ購入して稼働させたことでした。たしかFDベースだったと思います。当時は16ビットマイクロコンピュータの出始めで、MC68000と8086注13のどちらを選択するかで世の中は口角泡を飛ばす議論の真っ盛りでしたが、私はMC68000開発装置EXORmacsで動作させていました。
 その後、UNIX V7注14のソースコードを入手して解析することになりました。当時はAT&T注15の日本オフィスもなくて、直接米国から輸入しないといけない。そのライセンス内容、手続きを調べるために、当時、京大におられた阿草清滋先生、東大の石田晴久先生、SRAの岸田孝一さんを訪ねました。日本銀行の窓口で通産省に輸入手続きを取る作業は、私が担当しました。
 また、せっかくUNIXをやるのだから一番よい環境を整えようということになり、1983年には4.2BSD注16が搭載されたVAX-11/780注17を購入しました。1MIPSの性能のものがほぼ1億円。エアコンの効いた20畳のコンピュータルームに鎮座していました。

Y:覚えています。そこが夏は社内で一番涼しくて快適な部屋だったので。

F:1982年からスタートした、PDP-11注18用UNIX V7ソースコードの解析は、カーネル、I/Oドライバ、ヘッダーのコードリーディングと続きました。ラインプリンタ用紙に印刷されたカーネルのコードを1行1行解析しました。
 最初、ソースコードの「.h」の意味が分からなかったのですよ。IBMの汎用機の世界では、CSECTとかDSECTという概念がすでにあったのですが、アセンブラあがりの私は「データ構造を定義してみんなで使い回しできる」という概念がまず理解できませんでした。
 そしてソースリーディングを開始して約半年後、いよいよオムロン標準の16ビットボード(68000MPU)を改造して68451MMUを追加したボードコンピュータに、UNIXを移植する作業がスタートしました。開発環境は、EXORmacs上のIdrisを用い、移植中のOSのロードモジュールは、RS-232C接続で、実機にダウンロードしました。
 そして、AH(アドバンストハード)プロジェクトと合流して開発したのが、68000搭載のUNIXワークステーションSX-8700でした。当時はUNIX System III注19であり、開発環境としてVAX-780上のSystem IIIを使いました。VAXと68000のバイトオーダーが逆だったので苦労しました。このマシンがスーパーメイトという商品名で、1984年春のマイコンショーで、オムロンのコンピュータとして華やかにデビューしたのです。そして間もなく発表されたUNIX System Vを移植し直し、その年の秋に出荷が開始されました。

Y:私がその部署に配属されたのが1984年春で、「UNIXワークステーションができた、できた!」というお祭り騒ぎの時期でした。その前に10年以上のいばらの道があったとは、実は当時まったく知りませんでした。ただ、ものすごく楽しかったのは鮮明に覚えています。

F:あのころは自分たちが作ったコンピュータを自分たちで展示会に出したので、毎日がお祭り状態で本当に楽しかったですね。

Y:合言葉は「次はベガス!」でしたよね。「次はラスベガスで開催のCOMDEXという展示会に出展しよう」という意味だと聞いた私は、冗談だと思ったのですが、その数年後、本当に実現できましたよね。

F:「展示会までに我々の力で動くものを作るんだ!」というのは、技術者にとって最高のモチベーションになります。私はいまでもあの世界を忘れず、とめ研でも大切にしたいです。いろんな感性を持った技術者が集まり、自由な発想で開発を進めていけるような。
 私は、UNIX V7カーネルのソースコードを解析していた1982年当時、日本UNIXユーザ会注20(jus)の設立メンバーとして参加し、1984年の第1回jus関西UNIX研究会注21では、UNIXの歴史と機能に関する講演をしました注22。現在もメンバーなのですが、そこで個性的で魅力的な人にたくさん出会いました。とめ研で大切にしたいのは、そのような世界です。

Y:Linuxのユーザー会の雰囲気がそうなのですが、みんなが「やろう!」という気持ちで一丸となったときに発揮される実行力と一体感はすてきですよね。そういう世界を非常に大切にしている福留さんが作られた会社の「人と機械の共生でもっと生活を楽しく」の実現を楽しみにしています。

F:愛想のいい機械、たとえば朝起きて使った機械がその日一日を元気にしてくれることを話すといいなとか考えます。テレビが「続きがまだありますよ」と教えてくれたり。いわれて気持ち悪くないものを考えないといけないのです。

Y:すでに、湯張りが終わると「お風呂がわきました」といってくれたり、冷蔵庫が「ドアが開いています」といってくれたりする時代ですよね。

F:そのレベルでは、インタラクションが入っているとはいえません。「昨日はお風呂に入らなかったけれど、今日はどうですか」と、相手を理解して話すようになればと思っています。

Y:でも、押し付けがましくとやかくいわれるのを嫌がる人もいて、さじ加減が難しそうですね。

F:そこがとめ研の生きる道ですよ。

Y:そのとおりですね。今日は楽しくて懐かしく、そして有意義な話をありがとうございました。


「愛想のいい機械」
注1 とめ研究所
IT(情報処理技術)で多くの人が生活が楽しいと感じられるお手伝いができるようにと、2003年4月7日に設立。知識処理技術とヒューマンメディア処理技術で、人を中心とした社会の構築に貢献。
http://www.tome.jp/

注2 オムロン株式会社を卒業
福留さんは、オムロン株式会社では技術本部ヒューマンメディア研究室長だった。よしだがオムロンを卒業したのはもう10年以上前になるが、オムロン時代には福留さんにUNIXやC言語を教えてもらった。また、よしだが編集長としてオムロン社内で1986〜1991年に発行していたUNIXコミュニティ誌には、福留さんのOS作りの連載があった。さらに、当時中学生だった福留さんの娘さんにも連載をお願いしていた。懐かし〜い。このUNIXコミュニティ誌の別の連載が著者の方によってWeb化されている。
http://www.masuda.org/silicon/silicon.html

注3 鉄腕アトム
手塚治虫が設立した、虫プロダクションの商業アニメ作品第1号。1963年から4年間テレビ放映され(平均視聴率30%)、その後40か国で放映された。1980年にカラー版が登場し、2003年4月6日から「アストロボーイ・鉄腕アトム」としてフジテレビ系列で新作が放映中だ。この新作のテーマは「心のあるロボット」で、2004年にはハリウッドでの実写映画化が決定している。

注4 ネコ型ロボット「ネコロ」
2001年11月にオムロン株式会社から発売された、ネコ型コミュニケーションロボット。定価18万5,000円で、販売はすでに終了。充電式ニッケル水素バッテリー内蔵時の質量は1.6kgで、UNIX USER 2003年7月号(CD-ROM含む)の3冊分に相当。感情生成にはMaC(Mind and Consciousness)モデルを採用し、心理学理論に基づいた感情および欲求、行動を生成する。駆動部は4本脚(各脚2自由度)、尻尾2自由度、首2自由度、まぶた、耳、口。

注5 Webサイト
福留さんが開設しているWebサイト「五九郎のホームページ」のこと。家庭内LANのページには、作業日誌、ネットワーク概要、一般的な家庭内LANのシステム構成、ホームイントラネット、無線LAN、ケーブル配線、ケーブル配線の部品や道具の説明、Windowsのネットワーク設定、サーバーの設定、1つのネームサーバーで複数ドメイン名管理、メール転送、PPPサーバー、Sambaについてなどがまとめられている。
http://www.fukutome.gr.jp/~goro/homelan.html

注6 米Intelの8080
1974年4月に発表された、クロック周波数2MHzの8ビットのマイクロプロセッサ。トランジスタ数6000個で、プロセス技術は6マイクロメートル。世界初のパソコン、MITS社のAltairに搭載された。
http://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/ICcollection.html

注7 RTCM-80が持っていた機能
マルチタスキング機能、タスクの優先順位は4レベル、最大タスク数は64個。タスクの多重機能が、最大16回まで可能、タスク間同期が可能。入出力機器の管理機能があり、ユーザーによって入出力ドライバの作成が行えた。また、入出力機器の占有が可能。マクロ命令(システムコール)は、以下のとおり。ENTER、RETURN、WAIT、POST、STIMER、RSTIMER、REQIO、ENQ、DEQ。

注8 ソフトウェアクライシス
1984年に産業構造審議会が「1990年には60万人のソフトウェア開発技術者が不足する」と記した報告書を提出したことから、ソフトウェア生産工業化システム(Software Industrialized Generator and Maintenance Aid)の構築事業(シグマプロジェクト)などがスタートした。アイタック(NPO)のWebサイト上にある、「情報処理の促進に関する法律の沿革」の項目「2.昭和60年法改正について」で触れられている。
http://www.itac.gr.jp/rekishi.asp

注9 Ada
米国国防総省の要請により1974年から開発が進められたプログラミング言語。Adaの大まかな言語仕様は1979年に策定され、1983年にAmerican National Standards Institute(ANSI)に標準規格として制定された。1986年ISO(国際標準化機構)により「Ada 95」が標準化され、国際的な標準化が完了した最初のオブジェクト指向プログラミング言語とされる。「Ada」という名称は、詩人バイロンの娘で、世界初のプログラマと呼ばれるAugasta Ada Lovelace女史にちなんで名付けられた。
http://www.adahome.com/

注10 MC68000
1979年に米Motorolaから発表された16ビットCPU。内部レジスタは32ビット長で、アドレスバスが24ビット。DECの名機PDP-11を参考にしたといわれ、AppleのMacintosh、シャープのX68000、セガのメガドライブなどに採用された。
http://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/ICcollection.html

注11 UNIX V6(Version 6)
1975年に登場した、大学などBell Labs外部で一般的に利用可能になったバージョン。
http://www.ibiblio.org/team/intro/unix/where.html

注12 Idris(米Whitesmiths 社)
「C++標準テンプレートライブラリ」執筆者のP.J.Plaugerが設立した米Whitesmiths社による、UNIX V6互換OS。米Whitesmithsは、初めて商用Cコンパイラも発売した。

注13 8086
1978年に、米Intelが発表した16ビットマイクロプロセッサ。トランジスタ数2万9000個で、外部データバス幅が16ビット。プロセス技術は3μmで、動作クロックは5〜10MHz。
http://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/ICcollection.html

注14 UNIX V7(Version 7)
1979年にBell Labsからリリースされたバージョン。Ken Thompson氏とDennis Ritchie氏の手によるC言語、UUCP、Bourne shellを含む。
ftp://ftp.freebsd.org/pub/FreeBSD/branches/-current/src/share/misc/bsd-family-tree

注15 AT&T
当時、Bell Labsの親会社米AT&Tは、コンピュータ関連市場への進出が独占禁止法により禁止されていた。このため、UNIXはソースコードとともにメディアのコピー代だけで配布された。
http://www.wikipedia.org/wiki/ATT

注16 4.2BSD
1983年にリリースされた、TCP/IPをサポートしたバージョン。

注17 VAX-11/780
1977年に発表された、DEC最初の32ビット製品。

注18 PDP-11
16ビットアーキテクチャの、世界で最も成功したミニコンピュータ。シリーズ最初の製品は1970年に発表されている。

注19 UNIX System III
1928年に米AT&Tから初めて正式にリリースされた、商用UNIX。

注20 日本UNIXユーザ会(The Japan UNIX Society、jus)
http://www.jus.or.jp/

注21 jus関西UNIX研究会
http://www.jus.or.jp/kenkyukai/kansai/

注22 講演
福留さんが講演したのは、1984年9月18日開催の「第1回 jus関西UNIX研究会」で、テーマは「UNIXの歴史とSystemV」。そのほかの講演者は、高野豊さん、深瀬弘恭さん、安田秀一さん。jus関西UNIX研究会は現在も続いており、2003年6月18日実施が第110回になる。第1回からの全発表リストがWebサイト上で公開されており、当時から現在までの注目テーマが分かり、興味深い。
http://www.jus.or.jp/kenkyukai/kansai/

私のUNIX #9 〜福留さんのUNIX〜

●OS環境

 私のUNIX歴は非常(異常)に古いです(本文参照)。最初は、1981年から順に、UNIX V6コンパチブルなIdris、UNIX V7のソースコードです。その次が、VAX11/780で動かしたUNIX System IIIです。これも解析しMC68000に移植しました。そして私たちが開発したEWS(エンジニアリングワークステーション)スーパーメイトのOS、UNIX System Vです。
 現在のUNIX環境ですが、1998年にOCNエコノミーを回線として立ち上げた自宅サーバーがFreeBSDで、2003年にADSLモアを使った会社のサーバーはRed Hat Linux 8.0です。
 1999年春、Linuxが人気なのと、息子が学校でLinuxを使っていたため、自分でも勉強するために各種ディストリビューション(Turbolinux、Vine Linux、Plamo Linux、Debian GNU/Linux)をインストールしてみました。Linuxではややこしいハードウェア設定が自動設定ツールで手軽に行えるため、FreeBSDと比較するとインストール作業は非常に簡単で、「はたしてこれはUNIXなのか? これで良いのか?」という感想を持ちました。ハードに詳しくないソフト開発者には良いと思いますが、文化が違うのでしょうね。ただしLinuxの中でも、Debianはパッケージの意味が分からない人にはインストールが難しいという点で、パワーユーザー向きだと思っています。

●シェル

 cshを利用しています。シェルに関しては、たいした設定はしていないです。

●エディタ

 ラインエディタの「ed」と、スクリーンエディタの「vi」です。Emacsは使いません。

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Last modified: Mon May 21 13:45:06 JST 2007 by Tomoko Yoshida