「Linux女性ユーザの会」(LLUG=えるらぐ)のメンバとして、
以下の文章を書きました。LLUGに感心をお持ちの方、ぜひホームページを
訪れてみてください。
http://llug.linux.or.jp/
私は今(1998年現在)、「Linux 大好き人間」である。特に、Linux の上で、いわゆる OA ツールと呼ばれるソフトウェアが一つでも増える活動に熱を入れている。誰に頼まれたわけでもないのに…。 「昔、Wnn(うんぬ)の広報を勝手に担当していたときも、こんな感じだったなぁ」 と思うことがある。 私が「Wnn の応援団長」として張り切っていたのは、1991年ごろからの4年ほどの期間だった。
「なぜ、あの時、あんなに一生懸命になれたのか。」
それは、その作業が、 誰から命令されたことではなく、私が自分でやりたい!! と思って始めたことであったからだろう。物心ついた時から、与えられた宿題、与えられた仕事を無難にこなしていた私が、会社を辞めて自由になった時間を費やしてのめり込んだのが、Wnn という、フリーの日本語入力システムの広報活動だった。 その活動を通じて、私は多くの人と出会うことができた。
出会った人たち、そう、Wnn の開発者とユーザーは、一体となり、ニュースグループに流れる質問に答えていた。辞書を作っていた。将来を考えていた。開発者とユーザーは、いっしょになって「ソフトウェアを育てること」に取り組んでいた。 それは、「メーカーが商品をサポートする」という大前提のもとで、「ソースに触れることができるのはメーカーの開発者だけ。ユーザーは使うだけ、バグがあると文句を言うだけ、バグがフィックスされた新しいバージョンが出るのを、待つだけ。」という、Windowsなどに代表される、売り物ソフトウェア文化とは、 まったく違った世界であった。 私は自分が「Wnnというソフトウェアを育てる」という活動に参加できることを大いに楽しんでいた。
しかし、なのである。
1995年春、Wnn には、Wnn6(ワークステーション版)という商品版ができてしまった。これがまた、非常に賢かったのだ。 ボランティアたちがWnn4に対して、どんなに辞書を強化して、どんなにパラメータ値を変えても太刀打ちできないほど、変換効率がよかった。商品になったのだから、当然、販売促進部隊ができ、私が好き勝手に、広報活動をすることはできなくなった。 それは、私が Wnn応援団長を卒業することを意味していた。 ちょっと寂しかったが、「これが、娘を嫁に出す父親の気持ちなのね。」と思って諦めることにした。
私が「Wnn 応援団長」を卒業した時期、そう、1995年は、世の中ではインターネット・フィーバーがスタートしていた。 インターネット関係の雑誌がどんどん創刊されたため、私のところにも、それ関係の記事の執筆依頼が来るようになっていた。 結局、1995年から1996年にかけては、インターネット関係の本を書いたり、Java関係の本の発行のお手伝いをしたりしていた。 このJava関係の本が「Javaアプレット入門」というもので、メイン著者であった佐渡秀治氏は昔からの熱烈な Linux ユーザーだった。 当然、佐渡氏から「よしださんも、Linux を使ったらいいのに」と、何度も言われた。
当時私は、「友人が FreeBSD をインストールして、貸してくれたノートパソコン」というのを使っていたので、「Linux は、今は別にいいよ~」とか言ってLinux にはそれほど興味を示さなかった。 実は、私がノートパソコンを借りていた人物というのが、「Linux 嫌いさん」として有名な方だったりしたので、なんとなくLinux には手が出しにくかったという裏事情もあった。そんなこんなで、1996年ぐらいまで私は Linux とは縁が薄かった。
(→1995年当時の私とLinuxの関係は、こんな感じ)しかし、しかし、なのである。
1997年がスタートしたあたりから、私のまわりは騒がしくなってきた。 卒業したはずの、「Wnn応援団長」としての血が騒ぎだすような出来ことがおこったのだ。すなわち、「Wnn6 for Linux/FreeBSD」の発売計画がむくむくと沸き上がっていた。Wnn6 はとても賢い。 個人ユーザーにでも買えるぐらい安い値段で発売されれば、多くの人にとって吉報なのは間違いない。私は、誰からも頼まれてもいないのに、「Wnn6 for Linux/FreeBSD」の発売をスタートさせる活動に、まい進した。「Wnn6 for Linux/FreeBSD」の発売が決定した。Linux Japan 誌が、さっそく、このソフトウェアの紹介記事を書く人を探しているという話が、私の元に届いた。その瞬間、「Linux プレインストールパソコン」をぷらっとホームから買うことを即断していた。数週間後、 すばらしいスペックの「Linux プレ・インストールパソコン」が私の元に届いた。 大昔から(具体的には、大学を卒業して OL になった 1984年から)UNIX 使いであった私は、 水を得た魚のように、「Linux プレ・インストールパソコン」の上のソフトウェアを使い込んだ。
その後の私は、「Linux 大好き人間」への道、まっしぐらという感じであった。
1997年の春は、やっぱり、誰からも頼まれてもいないのに、「dp/NOTE(日本語ワープロ) for Linux/BSD」の発売をスタートさせる活動に、まい進した。 1997年の秋は、佐渡秀治氏との共著で、「Linux/FreeBSD日本語環境の構築と活用」という本を書いていた。この本を書く前の1997年の春ごろ、佐渡氏と私は、この内容の本を発行してくれる出版社を探していた。 「PC-UNIXに、ばりばりの日本語環境を入れたい人はまだいないでしょう。サーバーとして使うのなら、日本語環境はいりませんよね。」と言う出版社の方を説得する日々は、原稿書きそのものよりも、ずっと楽しかった。:-)
さて、この本の執筆期間中に私は、Linux の日本語環境であるPJE (Project Japanese Extensions)のメンバーの方々の、責任感あふれる開発作業を目のあたりにし、感動した。Linux の熱烈なファンになったのも、この時からである。 この本の付録CD-ROM に、PJE-0.1 を収録させていただくために、メンバーの方々に徹夜で作業をしていただいたことには、今も、深く感謝している。
私も、「Linux の世界をみんなで発展させる活動」に参加できればと思っている。ただ今はまだ、「私はこれをやりました(やってます)!」と自慢できることはないけれど、きっと、そのうち、私にだって何かできるはず…。 人々をそんな気持ちにさせる雰囲気が、Linux村にはあるような気がしている。
>私が「Linux と私」っていうのを書いたことを、報告してませんでしたが、 >そこに、佐渡秀治氏が、何度も登場します。私は事実に忠実に書いたと >思ってますが、もしどうしても変だ、許せん…という記述があったら、 >教えてくださいませ。 というメールを書いてみました。すると、以下のようなお返事が…。 >まるで Java 本は私に来た話のように書かれてますねぇ。それに私が熱心 >な信者として扱われてますが、当時はコストと楽チンさを考慮すると、 >どー考えても Linux しかなかったんですよね。Sun もまだ高かったしね。 > >#そういや、当時は Win も 3.1 で Office もまだなかった時代かぁ。 > 平和だったなぁ。
というお返事が届きました。「Java 本は私に来た話のように書かれてますねぇ」という意味は、つまりこういうことです。
実際は、よしだの所に出版社から「Java 本を書きませんか?」という話が来たのです。1995年の秋、Java がものすごく注目を浴びていた時期でした。私は Java は(も!)、よく知らなかったので、「困ったなぁ」と思ったのです。
その時、たまたま、佐渡さんにメールを書く用事があったので、「最近、注目されてる Java って詳しいですか?」とさりげなく書いたら、「Java は、あーだ、こーだ」という、非常に詳しい返事が戻ってきたんですね。 その説明の文章が、非常にうまかった!私一人が読んで捨ててしまうメールにしておくには、あまりにもったいなく思えたので、出版社の方にもフォワードして、「これほど文章のうまい人もめずらしいので、この人に書いてもらえるといいですね。」とかなんとか言って、 話をまとめたのでした。ちなみに、この Java の本、よく売れました。
次に、佐渡さんは「私が熱心な Linux 信者として扱われてますが、当時はコストと楽チンさを考慮すると、どー考えても Linux しかなかったんですよね。Sun もまだ高かったしね。」と書かれています。
そう言われてみると、佐渡さんは当時は、それほど熱心な信者ではなかったのかもしれません。とにかく、私が Linux をインストールする気になったのが、佐渡さんの影響だというのは事実です。「Linux をインストールしようかな。」とメールに書いたら、その直後、 「Slackware のCD-ROM(4枚組)」が家に届いたこともありましたねぇ。私にはSlackware があっているという判断から、これを選ばれたらしいです…。